梅色夜話



 ◎第二二

 その後、園城寺の三摩耶戒壇を建てた張本人の衆徒三十人は、今はもはや立ち帰って寺に住む様子もなく、世の中がつまらなく感じて、みな離山しようとしたが、今一度寺門の焼け跡に帰り、内証甚深(内心のさとりの深いこと)の法施(仏に経を誦すこと)を奉り、発心修行の暇をも申し上げようと思って、新羅大明神の御前に通夜して、今を限りの法味を捧げた。
 
 夜更けて、夢と現の境も分からないとき、東方の虚空から馬を馳せ、車を轟かす音がして、おびただしい大人(たいじん)、高客の来る勢いがある(貴人の来客ってそんなに特殊な勢いなんだ?)。
 「不思議だ、誰だろう」と目もあわせられず、わずかに見ると、あるいは法務の大僧正かと見える高僧が、四方輿に乗って、御供の大衆はその前後を取り囲んでいる。あるいは衣冠正しい俗体の客は、甲冑を帯した髄兵を召し連れ、また玉の簪(かんざし)を懸けた夫人は、軽軒(けいけん:軽快な作りの上等の車)に乗って、侍女数十人を左右に従えている。

 ある衆徒が、後ろの方に立っている退紅(薄い桃色)の狩衣を着た仕丁(下人)に、
 「これはどのようなお人がいらっしゃったのですか?」
と問うと、
 「こちらこそ、東坂本(比叡山の東麓)に御座います、日吉の山王でいらっしゃいます。」
と答えた。
 この高客たちはみな、輿車から下りて、幕の内へお入りになった。すると新羅大明神(三井寺の鎮守神)が、玉の冠を正しくし、威儀をかい繕って金帳の内からお出でになり、対面なさる。
 来客と主人との座が定まった後、敬盃の礼が行われた。舞曲の宴があって、新羅大明神は誠に興に和して歓喜の笑みを含みなさる。
 一晩中遊宴・歓娯して、夜が明ければ、山王がお帰りになるので、新羅大明神は寺門の外までお送り申し上げて、そのままお留まりになった。


◎第二三

 新羅大明神が玉の橋を歩んで、社壇へお入りになろうとする時、通夜を行っていた大衆の一人が、明神の御前にひざまずき、涙を流しながら申し上げた。
 「三摩耶戒壇建立の事は、過去における帝のお許しに任せて、我が寺の興隆を存じて興行いたしました事でございますので、一塵も衆徒の僻事(ひがごと:間違ったこと)とは思われません。それを山門が度々の勅裁をみだりに背いて、種々の魔障をなして当寺を焼き払ってしまいましたので、神明仏陀もさぞお心を悩ませていらっしゃることと存じます。
 しかし、当寺敵対の山門擁護の日吉山王に対して、宴を儲け、興を尽くして遊び戯れなさるのは、いかなる神慮でいらっしゃるのでしょうか。御心はかりがたく存じます。」
 新羅大明神は、通夜の大衆をみな御前へ召されてお答えになった。





 うひゃあ、主人公出ず!! 変わりに新キャラ(?)、神様たち登場! なにやら勝手に宴会始めちゃって、どうしてよいやら分かりません; 妙に世俗的な宴だし。
 しかし、一晩明けてついに、勇気ある僧が、ツッコ…いえ、質問申し上げました。「どうして、我らが新羅大明神さまが、敵である山門派の神、日吉山王と宴会をするんですか?」
 彼の質問によると、自分達のしたことが悪いことだとは、全く思ってないみたいですね。うらやましい性格だ…。
 そんな無邪気な質問に対する、明神さまのご回答は!?







 (仏教用語満載です;)
 「衆徒の恨み申すところ、一応はその謂れ(理由)はあるように思われるのだが、これはみな一端しか見ない狭い考えである。
 そもそも神明仏陀(神・仏)が利生方便(衆生に恩恵を与えるする仏の巧みなてだて)を垂れる日、非を是として福を与えたのも、真実の本意ではない。是を非として罰を行うのも、慈悲の至りである。ただ順逆(正しい道に従うことと逆らうこと)の二縁によって無上菩提におもむかせるためである。
 仏閣僧房の焼失は、もう一度造営するにあたって、財施(ざいせ:財物を施すという利益)があるからだ。経論聖教が焼けたのは、再びこれを書くのに伝写の結縁が得られるからだ。
 有為の世の報身仏にどうして生滅(生きることと死ぬこと)の相がないだろうか。ただこの焼失の悲しみによって、桂海が発心し、いくらかの教化引導を致そうとしている事がうれしくて、歓喜の心を表したまでである。日吉山王もこれをお悦びになるためにいらっしゃったのだ。
 石山の観音の童男変化の得度(とくど)、誠にありがたい大慈大悲(広大な慈悲)かな。」

 そうおっしゃって、明神は帳の内にお入りになったかと思えば、通夜の大衆の三十人、みな一度に夢から覚めて、同じように語った。


◎第二四

 さては、梅若公が身をお投げになったのも、観音の変化であったのだ(!!)。寺門の焼失も済度(さいど:衆生をすくうこと)の方便(衆生を救うための手段)であったのだ(!!!)。
 三十人の衆徒はみな信心を肝に銘じ、同じく発心してともに仏道を修めようと、かの桂海が、瞻西(せんさい)上人と名を変えて住んでいらっしゃる岩蔵の庵室に尋ねて行ってみると、三間の茅ぶき屋根は、半分ほどに雲がかかって、三秋の霜のために枯れた蓮の葉は薄く、一朝の風に落ちた果実は少なくない。

 松に吹く風、谷川の声、浮世の夢は覚め、さめざめと、若公のことのみを思い出して涙を流し、亡き跡を弔うたびに、桂海は月に向かって

 昔見し月の光をしるべにて今宵や君が西へ行くらん
 (かつてふたりで見たあの月の光を道しるべにして、今宵きみは西(浄土の方角)へいくのだろう)

と詠み、これを書院の石壁に書き付けていた。
 それをご覧になった帝は、非常に感嘆なさって、新古今和歌集の釈教の部に選びお入れになった。

 徳のある者は孤立することなく、必ずこれを理解し助けるもの、志を同じくするものがあるものだから、いくら桂海が嫌がったところで、同じような心ざしの僧侶が彼方此方から集まってくる。
 そこで、都近いところに寺を立て、あらゆる人を広く利益しようと、東山の雲居寺(うんごじ)という所に堂をお立てになり、毎年の春には三尊来迎の儀式を行いなさった。
 二十五の菩薩が娯楽歌詠して、往生の人をお向かえになるさまを見た人は、信心を起こさないということがない。遠くからも近くからも、踵(きびす)をついでここに来集し、貴賎の別なく手のひらを合わせてこれを敬礼した。
 仏種の縁から起こることは、このようなことを言うのである。





 「と、語って涙を流せば、聞く人はみな感嘆して、袖を濡らさない人はいなかった。」

 これが、「秋夜長物語」の最後の文章です。我々の感性では、もはやこの物語に涙を流すことはちょっと無理ですが、みなさまなにかしら感じるものがあったのではと思います。

 オチは仏教話にまとめられてしまいましたねー。お気に召さない方も多いと思いますが、物語の成立年代(室町初期)を考えると、仕方がないことかもしれませんね。何某先生もおそらく仏教関係者なのかな? しかし、意外と多面的な見方をしているところが、よかったと思います。まあ、寛大な心で。
 もしくは、あからさまにBLを前面に押し出した作品を公開することがはばかられたために、仏教布教というオブラートに包まれたモノになったのかなぁと期待をこめて推測してみたり。



 では、本文に行きましょう。
 新羅大明神によって語られた衝撃の真実!! なんと梅若公は、観音さまがみんなを仏道に導くために変身した姿だったのです! ええー;
 明神さま、なんか「よくやった、ご苦労ご苦労。」みたいなコト言ってご満悦のご様子。いやーん、このお役所仕事! 民衆の恋心と萌心を返せ!

 この、観音さまの変身スキルを生かした(デフォルトで33種の姿に変身できるぞ)、民衆発心推進運動というのは、その後もいろんな物語のなかに出てきます。観音さまが変化した美少年に誘惑された不幸な(!?)念者さまが何人いるかわかりません;
 しかしその見返りなのか、一応ヤらせてくれるんですね(こらッ!失礼しました〜;)。

 それでも、物語前半の若公の行動や心理を見ると、全く観音さまとは思われません。あれはまぎれもなく、ちょっと、いやかなり美人の、思春期の少年でした。
 きっと、明神さまに選ばれて、観音さまが乗り移っていただけなんですよ! あの心も身体も、左大臣のご子息、三井寺の稚児、梅若公のものだったと信じたい。

 それでも救いなのが、伝道者としてのもう一人の選ばれし者・桂海さんの梅若公に対する態度が、その後も変わらないということ。ずっと若公のことばかり考えて涙をながしてくれてるんですね。あんたの愛は本物だ!
 彼の詠んだ歌は、実際に新古今和歌集に収められていますので、チェックしてみてください。

 というわけで、まだまだツッコミどころはありますが、長かった「秋夜長物語」もこれで終わりです。
 賛否両論、ご感想は色々あるかと思いますが、この作品は、古典BL界の古典的・象徴的作品であって、「これくらいは読んどけ」と、江戸の衆道ハウツー本にも書かれております。よって、少なからずBLに萌えている人は、知っていて損はないかなと、思います。

『秋夜長物語』はこれで終了です。ブラウザを閉じて下さい。