梅色夜話



◎『心友記』 挿話

 景正(出入り者、24)×重光(奥州長者の子、14)

 
 昔、奥州に忠重卿(源忠重か?)という、世に並びない長者がいた。
 しかし彼は、傍若無人にして情の理非を解せず、悪を好んで善をそねむ、言いようも無い悪人であった。
 彼のただ一人の子息に、重光(しげみつ)どのがいる。この子は親に引き換えて、幼い頃より善きことを喜び、悪事を悲しみ、慈悲深く、今年14歳になられるのだが、その容姿は例えることも出来ない美人であった。

 出入りの使用人に、景正(かげまさ)という者がいた。彼は、重光どのの容姿に迷い、殊の外に心を乱していたが、賤しい身分であるからと、主君(忠重卿)を畏れ、また重光どのに直接会って伝えようとすれども、口に出せないでいた。
 景正の眼前には悲しみが満ち、ただ人知れず思い沈むばかりであった。

 そうするうちに、重光どのは、このことをお聞きになったのだろうか、すぐに景正と衆道の契りを結び、「天にあらば比翼(ひよく)の鳥、地にあらば連理(れんり)の枝」と戯れて、お情けの深いことは言うに及ばない。景正のありがたく思う心の内は、例えようもなかった。
 
 そうして、はや一年が過ぎる頃、父の忠重卿が二人の関係を知り、「賤しい身で、息子をたぶらかすとは憎い仕業だ」と、景正に無実の罪を着せ、殺すことを企んだのだった。


 重光どのはこれを聞き、急いで景正を呼んで、事の次第を話した。
 「ああ、情けないことになってしまった。
 今まであなたと交際のあるうちは、あなたは諫言を納め、忠を尽くし、身に代われる心ざしがあったために、我が身のよすがとして安心していたのに、私だけがこの世に残って今から後、方便(たずき:生きる手段)のない歳月を送らねばならぬのか。
 とくに私ゆえにあなたが罰せられるなんて、言葉では言い尽くせない……」
と、涙をもらし、しみじみと別れを悲しみ嘆きなさる。

 景正はそのお言葉を承って申し上げた。
 「なんとも有難い仰せでしょうか。『臣は忠に死す』などと聞きますし、その上に、賤しい身分の私めに主君(重光どの)の一年余りも数々の情恩をいただき、いま罪を受けること、それこそ私の望みでございます。
 しかしこの世にて、その御恩をお返しできなかったこと、それだけが後世の迷い今世の不覚でございます。
 たとえ今、命が終わるとしても、数々の御恩は草の影からでも、お返しいたします。」
と言って一礼をし、重光どのの御前を罷り、なんでもない様子で忠重卿の御前に座った。

 こうして、忠重卿の御前には、処罰を受ける人が大勢集まった(どんだけ気に入らんヤツがおるのか、この親父は;)。重光どのは耐えかねて、また景正を呼んで、
 「あなたの最期はもはや今のようです。それならば、あなたの命を私におくれ。こうなったからには、人の手にかけるより、自ら手にかけて、来世も同じ蓮に座を並べようぞ。」
と嘆き、そのまま伏し沈みなさってしまった。
 
 景正の心の内といったら、その有難さは身に余り、御手にかかって、生年25歳にして果てたのだった。
 重光どのも、すぐに髪を切って出家し、心に思し召す言葉をことごとく書き留めて、景正の死骸に添え置き、自身は修行に出ていかれた。
 二親は、後になって悔やみ焦がれ、国々を尋ねたけれども、重光どのは見つからなかった。そうして二親は力及ばず発心なさったという。
 
 重光どのはその後、三年の間、景正の跡を弔い、17歳で捨身(身投げ自殺)なさった。(完)




 これぞ、衆道の醍醐味、歳の差・身分差カプ!しかも身分下攻め!
 親父の反対というか邪魔もものすごい。
 なんでこの親からこんな子が生まれてきたのかというと、実は重光くんは文殊菩薩の化身で、親父の性根を叩きなおすために、子として生まれてきたそうです。
 でも、景正さんを愛しなさったのは、趣味でしょうな。なんせ、弘法大師に手ほどきなさったお方ですもの。まあ、文殊菩薩の下りは後付けのようですがね。

 今回の話は、「身分的・性格的に、思いを伝えられない男の気持ちを察して、積極的に受けてくれる」という理想の若衆像が現れているお話でした。誘い受といおーか、おちモノといおーか、男子の夢ですか。
 さらに、「思い合う二人の死によって永遠の愛が成就する」という終わり方、「主人公の美少年が神様だった」という裏設定は、衆道をテーマにする物語には頻出しているので、これだけ読んでも、衆道を扱う古典文学がどういうものか、その一般的な答えが見えてくるのではないかと思います。


 ☆重要語句☆
 「天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝」
 これは、情愛の深いことをあらわす慣用句みたいなものです。白楽天の長恨歌が元ネタです。
 略して「比翼連理の契り」などともいいます。古典の恋バナには頻出ですので、覚えて損は無い言葉。

 「来世も同じ蓮(はちす)に座を並べむ」
 つまり、「一蓮托生」。死んでも離れない、あの世で一緒になる、という意味ですね。
 普通、悪事の仲間に関わる時に、「一蓮托生だ!」なんて言いますが、このように愛の言葉として使うことも出来るわけです。
 日本語って不思議。

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