梅色夜話



◎『朝野雑載』より <山口小弁と佐々木清蔵>

 高遠(長野県中部)の城にて、一同に一番乗りせし、山口小弁(こべん)、佐々木清蔵は、同年にて、十六歳なりしが、清蔵は、越中の国主・佐々木内蔵助成政という、大剛の大将の甥なり。小弁は、京都の賤しき者の子なれども、容顔美麗なる故に、禿(かぶろ)に召しだされ、後に児小姓となる。
 清蔵は、観世流の能をよくし、小弁は、小唄の名人にて、ともに寵愛浅からず。

 高遠にて、戸田半右衛門という大剛の兵を越え(討ち入る際に、ほろが戸に引っかかって倒れていたそうな。情けない;)、両人ともに、一番に乗り込み、殊にもぎ付け(敵の兜首を取ること)の高名して、武勇をふるえり。

 その趣を、信長公聞き召し及ばれ、高遠にて手柄ありし輩、戸田半右衛門(汚名返上!)、梶原仁右衛門、桑原吉蔵、各務兵庫、ならびに両人の児小姓、何れも召しだされ、御褒美、御感書(戦功を賞して与えられる文書)を賜る。
 まず、山口小弁を御前に召し、
 「この度高遠にての働き、希代の事なり。城介(織田信忠)が目がねを違えず、一入満足なり」
と褒め給い、御手づから国久の御脇物に、御感書を添えてたまわる。
 次に佐々木清蔵を召し、
 「高遠の働き、骨を折れり。汝は大剛の内蔵助が甥なれば、手柄いたすはずなり」
と仰せられ、長光の御脇物を、御感書に添えて賜りぬ。

 ………

 かかるけなげの小弁、清蔵、惜しいかな、僅かに六十余日を経て、京二条の城に戦死せし事。
 されば二条の城を、明智が兵、囲みて、城介殿を殺し奉りし時、清蔵、小弁に向かいて、
 「素肌にては、思ふ様に働くことなるまじ。いざ、物の具して戦ひ、いさぎよく撃死せん。」
と言ふ。小弁聞きて、
 「もっともなり。さらば物の具の才覚すべし。」
とて、両人ともに城外にをどり出、難なく敵一人ずつ討ち伏せ、その屍を城内へ引き込み、甲冑を取りて著し、また討て出けるが、大勢に渡り合い、十六歳を一期として、終に晴れなる撃死をとぐ。これを見る人、みな涙をながして惜しみけるとかや。



 戦死した時のふたりは、「面に血をそそぎ、髪の乱れしを……」という壮絶な様子だったと、別の文献は伝えています。
 それほどまでに主君に忠誠を誓い、高名をあげた小姓のふたり。それが、ひとりは、越中国主の甥・佐々木清蔵くん。もうひとりが、京都の庶民(まさかそれ以下!?)の子・山口小弁くんであります。

 いやー、こういうことってホントにあるんですね。庶民の出にもかかわらず、その美貌で小姓にまでなった少年がいるとは!!!
 妄想かと思われたシンデレラストーリーは、実在するのですよ! んー、嬉しい。

 小弁くんは、はじめ「禿(かぶろ)」として、殿にお仕えしていたみたいですね。しかし、この「禿」というのがどういうものなのか、調べてみたのですが、よくわかりませんでした;
 女の子で「禿」なら、遊女見習いなんですが、武家における「禿」とはいったい? まあ、なにやら色っぽいお仕事のような気がいたしますが…v

 清蔵くんは、さすがに名門の出で、戦においては信長さまも期待通りの戦いっぷり。その一方で、能の名手という風流人。正統派の御小姓ですv
 小弁くんは小唄の名人なので、小弁くんの唄に合わせて舞を舞ったりしたのでしょうか。

 このように、かたやエリートかたや庶民という正反対のふたりですが、意外と仲がいいみたい!?
 小弁くんが、禿から小姓になり、戦で手柄を立てられるようになったのも、清蔵くんというおね…いやお兄様(同い年だけど)が、武士のなんたるかをやさしく厳しく教えてくれたのでしょう。"スール"ですな。
 最後の戦いのとき、しっかり鎧を装備して戦うことを、清蔵くんが提案しました。「素肌にては…」って、別にふたりともハダカだったわけじゃないんだろうけど(いや、それも大歓迎ですが)、小弁くんもその意見に従います。

 美少年どうし、仲良く高め合って一人の主君に仕える……。しかも、ふたりとも、同じように主君から寵愛を受けている……。
 このちょっと変わった三角関係が、不思議とラブラブにうまくいっている、というのがまたイイですねvv

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