梅色夜話



◎『根南志具佐』(八)

 菊之丞と若侍が、驚いて飛びのこうとするのを、八重桐は両手で押し沈めた。
 「どうか騒がないでください。先ほど蜆を採ろうと中州まで行きましたが、酔いが強くて耐えられなかったので、小舟で帰ってきたところ、おふたりは閨の内。
 いぶかしくはあったけれども、邪魔をするのは…、しかし様子を聞かないのも…と、思って舟の向こうに身を潜め、一部始終聞いてしまいました。
 蜉蝣やせみでさえ命を惜しむと言うのに、お二人の死を争うことは、本当に殊勝なことですが、閻魔大王が恋い慕いなさっていると聞けば、路考どのの事は、とても逃れられない運命です。
 しかし、顔も見たことのない恋となれば、私を身代わりに立てて、路考どのを助けてください。」

 「なぜ身代わりになるのか、不審に思っていらっしゃるのでしょう?
 路考どのはよくご存知のとおり、我が荻野の系図は、初代から父の八重桐に至るまで、代々の名女形でした。
 それが私が三つの時に父が死に、五つの時に母に別れ、孤児(みなしご)となったところを、父と親交のあった路考どのの父上・菊之丞(初代、女形)どのが引き取って、我が子同然に養いくださり、小唄・三味線・舞踊から芝居の大事まで様々に教えていただきました。
 
 師匠(初代菊之丞)は『幸い我が子もいないから、お前に家を継がせたいが、そうなれば荻野の名字が絶えて、先祖の跡を弔う人がなくなってしまうな。』と、私を八重桐の名に改め、あなたを養子にむかえて、『この子を兄弟と思え』とよくよくおっしゃりました。
 今、不肖ながら三都(江戸・京・大阪)の舞台を踏めるのは、生みの親にも勝る大恩であって、養い親として師匠としての並々でない情けのおかげです。
 
 師匠は今わの際にも私を枕元に呼んで、
 『私ばかりか菊次郎(初代の弟)まで、名人の名を残せたから、死ぬ命は惜しくないが、心にかかるのは吉次(路考の幼名)のことだ。どうかお前が私に代わって、吉次を守り、二代目菊之丞といわせてくれよ』
と涙を流しておっしゃった末期の言葉は心に深く染み渡り、私が
 『命に代えても後見して、名を上げさせて差し上げます。お気遣いなさらないで』
と言ったのを聞いて、にっこと笑いながらこの世を去っていかれました。いま思い出しても涙が出ます。

 まだ幼少の路考どのをお世話したのは恩返しのため。
 父御に習った芸の秘伝も五年以上前にすべて伝授して、次第に路考の名が名高く評判になっていくのは、我が名を上げるより百倍も嬉しかった。
 路考どのが評判を取るごとに師匠の位牌へ向かって自慢したのも、師匠の末期の言葉を忘れてはいない私のほんのちょっとの志だったのです。
 しかし、今日のこの事情で路考どのを死なせては、師匠への言い訳が立たず、瀬川の名も断絶させては希望に反します。
 私は死んでも、私には子どもがいるから、荻野の名字は絶えることはないでしょう。

 この大恩を返すのはまさに今、このとき。どうか妻と子どもの事は見捨てないで世話を頼みます。
 気にかかるのは、あなたの器量に比べれば、雪と墨、鷺(さぎ)を烏というようなものですが、言いくるめるのは役者として、上手くやり遂げられるでしょう。 

 何度も言うけれど、路考どの。品行を大事に、酒はほどほどに、世間の評判を落とさないようにひたすら芸の修行をして、親にも伯父(菊次郎)にも勝る、と言われるほどになってください。それが私の慰めです。」
 そう、熱心に語った。


 ふたりも涙にくれながら、菊之丞は八重桐にすがりつき、
 「親に別れて後は、あなたから受けた様々なご教訓を浅からず思っているのに、私の身代わりになろうと言うお言葉、生まれ変わっても忘れません。
 しかし御恩あるあなたを殺して、どうして我が身を永らえようなどと! 是非この身を!」
 「いや私が」
 「いいえ私を」


 そうやって三人が死を争ってやまない時、平九郎・与三八たちがどやどやと戻ってきた。
 三人が慌てている最中に、河童の若侍は影のように消えて、行方は分からなくなってしまった。菊之丞は「少し待って」と言いたいが言えない他人の中で、じっと水面を見つめていた。

 八重桐は覚悟を決めた。舟やぐらの上からざんぶりと、水中に飛び込むと、水煙がばっと立ち上がった。
 跡に残ったのは水の泡ばかり、八重桐の命は泡と消え、はかなくなってしまった。


 船中はにわかに騒ぎたち、「八重桐が入水した!」と口々にいうが答えはなく、波の間にその姿を探したが、無駄であった。
 菊之丞は涙を流し、打ち明けられない事情の身の上で生きていては義理も立たない、と共に入水しようと覚悟した様子なのを、事情は知らないが、驚いた平九郎は押し止めた。
 「もっとも、お前が催した舟遊びではあるが、八重桐が入水したのは結局は事故だろう!
 俺たちもこの舟に一緒にいた事だから、お前一人の咎じゃない。奉行所に届け出て、その後どうなるにせよ、みんな一同に行動しよう。」
と、与三八や船頭たちも様々に話して、菊之丞を留まらせた。


 菊之丞は明かせない胸の内に苦しみ、しきりに悲しみの涙を流した。せめてもの思いでもう一度、八重桐の姿を探したが、竜宮へ連れて行かれたのだから、見つかるはずはない。
 妻をはじめ、八重桐の突然の死を聞いたものは、みな袖を濡らすのだった。(完)


 
 師匠への敬愛の念、菊之丞への慈しみから、八重桐は自己犠牲の道を選んだのでした。路考に対する敬語がすごく切ないです……。
 そう、この話の主人公は、閻魔大王でも菊之丞と河童でもなく、八重桐だったのですね。
 八重桐的には、家族以上に大切なもの・約束を守ることができて、本望だったのではないでしょうか。妻の悲しみは計り知れませんが。
 全てを秘密にしていかなければならない菊之丞もつらいですね。「美しさは罪」という言葉がよぎります。

 八重桐の身の上というのはほんとにドラマチックですよね。
 愛する師匠が新しく養子をもらって、しかもそっちの方をより可愛がるなんて、ちょっとは嫉妬してもいいぐらいなのに。なんて立派な人だ。
 しかし、八重桐の没年38歳というのを信じると、菊之丞との差は15歳ほど。師匠がなくなった時、八重桐24、菊8歳。素直に菊の世話をするのも当たり前か。
 つーか、これってかなりの萌設定? 歳の離れた血のつながらない弟(美少年)。イロイロと教えたり、世話したりしていたみたいだし、妄想が広がります!


 さて、これで『完』かよ!?とお思いの方も多いでしょう。そうなんです。これで、「根南志具佐」前編は終わりなのです。む、胸の内は源内先生に言ってくださいね;
 しかし、「根無草」後編が存在します。ですが、これは前編から6年も後に書かれていて、続編という感じは薄いです。菊之丞もほとんどでてきません。それでも、その後のフォローはされているので、少しご紹介しましょう。
 
 八重桐を菊之丞と偽って閻魔様のもとへ連れて行った河童ですが、結局は路考愛しさに身代わりを立てたことがバレて、蹴り殺されてしまいました。
 冥途で死んだのですから、その魂は行く当てがなく娑婆へ迷い出て、人の体をのっとって、若衆千人斬り(!)なんてことをやらかしているそうです。恐ろしい。
 閻魔様の方は、それから何年たっても菊之丞への恋心がやまず、ついに地獄を抜け出して、娑婆へ出て行ってしまったということです。(八重桐のことは!? 不憫;)
 
 これはこれで、面白い話なのですが、本サイトの趣旨から反れてしまうので、割愛! 機会があれば是非読んでみて下さいね。

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