梅色夜話



■軽口衆道往来 寺子屋■

 今回は、中近世の教育機関・寺子屋をテーマにお送りします。


◎きのふはけふの物語(上・60)

 二郎(じろう)という子、寺から習字の清書(きよがき=せいしょ)をして家に帰り、親たちに見せると、
 「さてさてうれしや、よき手にならう。(字が上手になるだろう)」
といって喜ぶ。母が言うことには、
 「手ばかりでもない。をとな心もあると見えた。」
 「なぜに。」
 「清書のおくに、"あなかしくじらふ"、とあるほどに。」

*このお話は*
 二郎くんが清書した手紙文を両親に見せると、母親は「字ばかりでなく心も大人になったようだ」という。母親は、手紙の末尾 に書く挨拶"あなかしく"と署名"じらふ"を、"穴貸し、くじらふ"と読んだのですね。「くじる」は……辞書を引いてみよう!

*ポイント*
 二郎くんは自宅通学みたいですね。「寺子屋=男色」という意識がなんとなく垣間見える一編です。


◎きのふはけふの物語(上・捨39)

 ある人、子供を寺へ入れ、しばらく会っていないと言って迎えに行き、連れて帰る。寺の中ですれ違う人々が、
 「すばり(小穴=受くんを指す言葉)、里へか。さらばさらば。」
という。親はこれを聞いて、
 「すばりとは、名をかへたるか。(すばりとは、名前を変えたのか)」
と疑問に思う。子供は
 「寺のならひにて、下戸(酒の飲めない人)をすばりと申す。」
と答えた。それから数日過ぎて、また親が一緒に寺へやってきた。法印さま(寺の上位の僧)が出迎えて、
 「松千代(子の名)ははやう、兵衛殿(父の名)奇特に。(松千代、早く帰ってきたね。兵衛殿は、わざわざ来てくださるとは奇特 なことで)」
と言って、お酒をお勧めになった。父親が
 「一円我らも、倅と同じ事にて、すばりで、下されぬ。(まったく私めも、息子と同じで、下戸なので頂けません)」
 「ざれ事(冗談)ばかり言はずと、一つ参れ。みなの一門は、ちとなるかと思ふたが、ただし、思ひ忘れて候か。是非一つ。
 (冗談ばかり言わないで、お一つどうぞ。あなた御家族はみんな酒が飲めると思ったが、あるいは思い違いでしたか。是非一つ)」
と法印さまがおっしゃるので、
 「法印様の御覚えも、悪う御座らぬ。松千代と私こそ、すばりで御座候へ。あれが姉母は、すばりで御座なひ。
 (法印さまの記憶力も悪くはございません。松千代と私こそすばり(下戸と言いたい)です。この子の姉・母がすばりではあり ません)」
といった。

*このお話は*
 お父さんが、子供のいったことを真に受けて「すばり」を「下戸」の意味だと勘違いするお話でした。

*ポイント*
 先の二郎くんに変わって、松千代くんは下宿生。寺とは家族ぐるみの関係のようです。お姉さんも通っていたのかな? いまさ らですが、当時は子供も飲酒OKだったんですね。
 そんなことより、注目すべきは松千代くんのあだ名! 「すばり」って! これも辞書を引いてみましょう。
 親の目の届かないところで、子供は"をとな"になっているんですね……。何を教えているんだ!


◎きのふはけふの物語(下・9)

 ある稚児が、御里(=実家)に帰って長い間お遊びなさる。寺の法印さまが御見舞いとして、御文を三位(さんみ:稚児の後見役 )につかわした。その文の、色々様々な思いぶり(恋の情)を示した文体の中に、「そもじ(そなた)、ながながその地に御逗留にて 、このごろは"おにやけ"に飢え申す」と繰り返し繰り返しお書きになる。
 この文が稚児の脇明(わきあけ:脇のあいた着物)の袖から落ちたのを、稚児の母親が拾って見て、右の文章を不審に思い、父 親に聞いたが分からない。父親は
 「ちごに問ひ、何にても持たせ進上申せ。(こどもに聞いて、何であっても持たせて進上申せ)」
と言う。それならばと稚児に尋ねたが、稚児は赤面して、
 「其の事にて候。山(=寺)のならひにて、酒をさように申しならはし候。(そのことですが、寺の習慣で、酒をそのように申す のです)」
 「それこそやすきことよ(それなら簡単な事だ)。」
と言って、親は酒樽を取り寄せ、母親の手で「上おにやけ・おなら(上等な酒・奈良産の意)」と書き付け、三位を使いにして法印 様に進上した。
 「さて、三位殿、御辛労や。ちとおにやけを参れ。(さて、三位殿、お使い御苦労様。ちょっとお酒をどうぞ)」
と、親はひたすらに酒を進める。三位は少しも飲まない。三位が
 「一円(まったく)の下戸ぢゃ。」
といえば、
 「それはあまりに残りおほき事や。さらば、おにやけの身("酒の実"=酒の肴、のつもり)なりとも参れ(召し上がれ)。」
と言われた。

*このお話は*
 稚児さまがあんまり長く里帰りしているので、法印様がさみしくなって手紙を出しました。その文に「"おにやけ"に飢えている 」とあるので、日頃お世話になっている先生をわずらわせてはならんと、親はそれを贈ろうとします。しかし稚児が"おにやけ"の 本当の意味を答えるはずがなく、親は酒の事だと誤解してしまうのでした。

*ポイント*
 出ました、「おにやけ」! 漢字では「御若気」。やっぱり辞書を引きましょう。この稚児さまは、確実に法印様とそういうカンケーになっているのですね。さすがに親にもひた隠し。
 この勘違いが、後の「おなら」や「おにやけの身」というさらなるおかしみを生み出している……はずです。
 ちなみに、「三位」は稚児の後見人のことで、稚児の補佐役、マネージャーとでもいいましょうか。このあたりのシステムはち ょっと謎に包まれています;


◎きのふはけふの物語(上・捨72)

 お稚児さま、はじめての御登山(とうざん:寺入り)の折、痔をさんざんにわずらいなさって、正気も無いほどふらふらのお姿 であった。お稚児さまは、法印(総取締役の坊官)・三位(稚児の後見人)を召して、とんでもなく叱責なさる。
 「あのやうにしゃぶるものか、さてさてくせ事(けしからぬこと)ぢゃ。」
 三位は申し上げて、
 「日本国の大小の神、別しては山王大師も御照覧候へ(以上、誓いを立てるときの決まり文句)。しゃぶりはいたさぬ、ぬき様に (ぬく時に)やぶれた。」

*このお話は*
 「しゃぶる」は、なめる、と言う意味のほかに、「骨までしゃぶり尽くす」というような意味もあるようです。あとはいわずもが な!

*ポイント*
 新入生(といっても、寺小屋に入る年齢は決まっていませんので、何歳かはわかりませんが)にとっては迷惑な歓迎振りだった ようです。というか犯罪だぞ! かわいそうな、お稚児さま…。
 しかし、泣き寝入りしてしまうのかと思いきや、後見人らを呼んで激しく文句を言う強気な子です。お稚児さまはおとなしく受けてくれるもんだ、なんて思い上がっていてはいけないということですね。お稚児さまだって、嫌なものは嫌と言います。当たり前のことですが。



**まとめ**
 今回分かったことは、寺子屋は子供にとって大変キケンな場所だ、ということですね。
 笑い話になるほどに、子供が寺小屋で"をとな"になってしまうということが茶飯事だったということでしょうか。今考えると、あまり良い事とは思えませんが、しかしそれによって、子供が心に傷を負うかどうか、という問題は、現在の感覚で判断すべきことではないでしょう。

 あら、ちょっと暗くなっちゃった; えー、話を明るく腐った方向にもって逝きますと、すなはち、寺子屋において「先生×生徒」という王道カップリングが成立する!ということです。わーい。
 お寺には、お偉いおじーちゃんの先生から、脂ののったおじさまの先生、血気盛んな若い先生、文学好きの風流人に意外な武闘派まで、あらゆる先生がおります。生徒も若君から町のコまでいろいろですので、設定もつくり放題v

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