梅色夜話
■軽口衆道往来 稚児の食生活 その二■
◎きのふはけふの物語(下・25)
あるちご、思いの外に餅を召し上がり、にわかに煩熱(熱に苦しむこと)してお困りになる。
「ちと、うちのくつろぐやうに御薬を参らせう。(ちょっと、お腹が楽になるようにお薬を差し上げよう)」
というと、ちごは
「薬や湯が口へ入るほどならば、また一つも餅をこそ食わふずれ。(薬や湯が口に入るくらいなら、もう一つでも餅を食べるのに)」
*このお話は*
……まんまですね。
*ポイント*
お稚児さまが苦しんでいれば、お薬を差し上げる。ただの食べすぎで、自業自得の腹痛なのですが、ちごは大切にされていたんですね。
◎きのふはけふの物語(下・26)
延暦寺の小法師、御斎(おとき=朝食)がすぎて、山へ木の葉掻きに行くといって、御ちごさまの中食(ちゅうじき=昼飯)を膳棚に上げて置いて、その下に小法師の昼飯もおいた。
さて、山から帰って見ると、御ちごさまの御膳もあがり(食器も片付いて)、自分の飯もない。不思議な事だと思い、御ちごさまに尋ねると、
「まことに、お汁かと思ふて、あこが飯に打ちかけて食うた。(ああそれは、お汁かと思って、わたしの飯にかけて食べた)」
と仰せられた。
*このお話は*
やっぱりまんまですね。
*ポイント*
「小法師」は年の若い僧のこと。「木の葉掻き」は燃料にするための落ち葉を拾うことなので、この人は雑用担当の、位の低い僧なのでしょう。御ちごさまにもかなり気を遣わねばならない身分のようです。
前回、稚児の食事は一日二回だといいましたが、ここでは朝・昼・夕の三食になっているようです。物語の成立が江戸前期なので、このころが二食から三食への過渡期だったのでしょう。
さて、「あこ」です。「あこ」はもともと、目下の者やこどもを親しみをもって呼ぶ語でしたが、中世以降はこどもの自称になりました。まわりの人が「あこ、あこ」と呼ぶので、自分でも自分のことを「あこ」と呼ぶようになったのでしょうね。萌な一人称です。
◎きのふはけふの物語(下・27)
叡山の小法師たちが、山へ行くときに、
「御ちごさま、ここに御昼が御座りまするぞ。九つ(正午の鐘)をうつたらば、こしめせ。
(御ちごさま、ここにお昼ごはんが御座いますからね。九つを打ったら召し上がりください)」
と申し置いて出かけ、やがて山から帰ってくると、四つ(十時ごろ)の時分に、すでに召し上がったあとがある。どうしてかとお尋ねすると、
「いや、九つ過ぎたる。(いいや、九つを過ぎている)」
と仰せられる。小法師たちが
「ただいま四つをうちたるに。(たった今四つを打ったところだが)」
と申すと、
「さればこそ、今朝五つ(八時)と今四つとは、九つではないか。
(それだから、今朝の五つの鐘と今の四つので、九つではないか)」
小法師たちは、「さてさて、よき算用や。(さてさて、うまい計算だ)」と言って、あきれてしまった。
*このお話は*
御名算〜!!
*ポイント*
やはり叡山の小法師は、稚児より下の存在なのでしょうか。さすが「一稚児二山王」は伊達じゃない? 最高位の寺だけに、集まる稚児も高貴な方々が多いのかもしれません。
江戸の時間については、歴史の教科書や資料集に載っていたと思うので、みなさまご存知のことと思います。しかしなんであんな分かりにくい数え方をするんだろうか……。九から四に減ってまた九から四に……むうう。
◎きのふはけふの物語(下・57)
あるちご、花見に行くといって、白箸を一膳腰にさされた。後見の法師がこれを見て、
「沙汰のかぎりや。(もってのほかの卑しいふるまいだ)」
と言って、目に角をたててにらむ。ちごが言うことには、
「そなたの何と御にらみ候ても、あこが心には吉光(よしみつ:鎌倉後期の刀工)の脇差よりたのもしひ。
(そなたがどれほどおにらみなさろうと、私の心には吉光の脇差より頼もしい)」
*このお話は*
もう、そのまんま。
*ポイント*
お稚児さま、お弁当は持ったのでしょうか。腰に箸をさすのは、たしかにちょっとみっともない!?
稚児の生活における謎の一つ、後見。ここでは僧が、その役を務めているようです。いままでの話の中には、お稚児さまの実家から派遣されているような人もいたような……。ますます謎です;
**まとめ**
お稚児さまの食生活について分かったこと。
まず食事は一日二回か三回。自分で取りにいかなければならない子もいれば、法師が準備してくれる子もいる。
おやつには餅や饅頭。後見にしかられようが、法師たちにあきれられようが、しっかり心の思うままにお召し上がりになる……。
と、こんなところでしょうか。次はお稚児さまより少し年齢層があがって、若衆さまの食生活。
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