梅色夜話



 ◎第七

 桂海律師はこのお返事を見て、心はますます浮かれ、さらに「帰らなければならない」という気持ちも起きない(ということは、やはりいい返事だったんだ!)。
 互いに会わないままで別れるのも、我慢できないように思われたので、しばらくは近くの宿に留まって、遠くにいながらも、せめて梅若公のいらっしゃる方向の木の枝だけでも見て暮らしたい、と思うのだが、それもさすがに節度のない行いであるので、「いずれまた、参りますので」と、桂寿に暇を求めて山に帰った。
 しかし一足歩んでは振り返り、二足歩んではまた戻る…、そんなことをしていたので、春の日は長いといっても、程近い坂本の僧房までもたどり着けず、日が暮れてしまい、その日は戸津の辺りにあった埴生の小屋に泊まった。

 夜もすがら梅若公のことを思い明かし、朝になって山に登ろうと、庭まで出たのだが、まるで千引きの縄(重いものを引く縄)を腰につけているかのように、自分の意志ではない心に引き留められて、戸津から引き返して大津の方へと、ぼんやり心の惹かれるままに向かった。
 
 雨がしめやかに降っていたので、蓑笠を羽織り、旅の衣装に身をやつして行くところに、唐笠をさしかけた騎馬の旅人が一騎、道で行き逢った。「誰であろう」と見遣ってみると、なんと桂寿であった。
 桂寿は律師を見て、
 「あれ、不思議。申さなくてはならない事があって、知らない山まで尋ねて行こうとしていたのに、嬉しいことにこんな所で出会うなんて。」
と言って、馬から飛び降りて律師の手を取り、側にあった辻堂に立ち寄った。


 「何事ですか」
と律師が問うと、桂寿は懐から色美しく殊さらに香で焚き染めた文を、その触れる袖さえも香るように匂うのを取り出して、
 「どんな山奥に迷い込んでも、聞いたことを道しるべにして、あなたを尋ねてまいれ、と梅若公がおっしゃいました。ほんとうに並々でない御心迷いをなさっていますよ。まして一夜の後の袖の上、さぞ涙の露で濡れておられることでしょう。」
と、冗談を言って笑えば、律師も
 「せめて別れを嘆くことでもございましたら」
と戯れて文を見ると、

 いつわりのある世を知らでたのみけん我が心さえ恨めしの身や



 まず、梅若公の歌の解釈からまいりましょうか。
 なぜかと言うと、ここにはいっさいの注釈も付けられていないからです。こういう時って、校注者の先生にもよくわからない所なのかなぁ…と思いますが、どうなんでしょう?

 単語自体はみんな基本的なものですが、助詞の使い方が難しいですね; 「偽り(嘘)のある世の中ということを知らないで、(私はあなたを)信頼していたのでしょう。そんな私の心さえ、恨めしく思います。」というカンジ?
 では、このときの若公の心情を推測して、これを考察してみましょう。
 桂寿くんのセリフから、若公の心が相当乱れていることが分かります。また、「一夜の後の…」といっていますが、これは「戯れ(冗談)」なので、つまり一夜も供に過ごしたこともないまま、別れのあいさつもしないで、桂海さんは帰ってしまった…ということだと思われます。
 ここから考えるに、梅若公は、いつのまにか桂海律師のことを、心から好きになっていて(なぜかは分からないけど。桂寿くんがいろいろ吹き込んだに違いない。)、この人なら身も心も任せられるかな……と思い始めていたときに、なんにも言わずに(せずに)去っていってしまった。きっと「私は捨てられてしっまたの!?」と思ったのでしょうか、「私を好きだと言ったのは、嘘だったの…?」と。(桂寿くんも、いろいろフォローしたんだろうけど。)
 それでも「チクショウ。バカにしやがって、コノヤロー!」とは怒れない。離れていってしまうと思うと、はっきりと、自分が桂海律師のことを好いているということが分かった。そうは言っても、さすがに左大臣のご子息。持って産まれた気品の高さが、見苦しく取りすがって「好きだから行かないで!」なんてコト、言わせません。

 こうやって、いろいろ考えてみた結果、梅若公はその愛情を、「恨み言」という形に表して伝えたかったのではないか、という結論に達しました。素直になれずに自虐的なコトを言ってみたんでしょうね、可愛いじゃないか。
 とまあ、ワタクシはこのように解釈(というより妄想)してみましたが、いかがでしょうか。ご意見・ご感想ありましたら、お気軽にお伝えくださいませ。

 さて、桂海さんの浮かれっぷりは、毎度のコトなのでもういいませんが、今回の桂寿くんのアクティブさには、驚かされました。
 ひとりで馬に乗って、山まで行っちゃうんだ!しかも、そこから飛び降りるというオテンバさんv
 左大臣の御子息にお仕えする童であるのにもかかわらず、この妙に俗っぽい(?)親しみやすさと、意外な「男の子」っぽさ。桂寿くんに、また新たな謎と魅力が加わってしまいましたv 




◎第八

 「御所のそばに、知り合いの衆徒の坊がおりますから、そこにしばらく滞在なさって、御簾のひまを御心に懸けられてはどうですか。」
と、桂寿がしきりに誘うので、桂海律師は思う方に心惹かれて、また三井寺に向かった。

 桂寿がある坊の学問所を借りて、律師のしばしの宿とすると、その僧房の主は急ぎの用意をして、丁重にもてなした。
 毎日、稚児たちを大勢呼び出しては、管弦をしたり、褒貶の歌合(ほうへんのうたあわせ:その場で各人の歌を評する歌合)などをして、日を過ごした(なんというVIP待遇!)。
 律師は「所願のことがあって、新羅大明神(三井寺の守護神)に七日参りをする」などと言って、夜になれば院家(梅若公の住む聖護院)のそばに紛れこんで、築山の松の木陰、前栽(植え込み)の草の露の底に隠れていると、梅若公もすでに心得ていらっしゃる様子で、「人目の無い時があれば…」と隙を求めていらっしゃるようだった。
 しかし、その願いは叶わず、良い機会がなくて外に出ることが出来ないまま、気をもんでいらっしゃるのを見るのはかえっていたわしく、
 「ああもう、どうなってもいい。ただ遠くから若公のお姿を見るだけを、我が身の運命と思って、若公のお情けを命にして生きていこう。」
 そう思いながら、朝夕若公のもとへ行っては帰り、帰っては行き、日数も十余日になってしまった。


 「いつまでも泊まっていってください」と坊の主は言うのだが、長居をするのも、さすがに遠慮されるので、明日は我が家の山へ帰ろうと思っていた時に、桂寿がやってきて申し上げた。
 「とうとう今夜、京からのお客人が御所へお入りになって、御酒宴が設けられておりますから、門主もたいそう酔っ払っておいでです。ですから、夜更けまで帰らないでお待ち下さい。必ず桂寿を召し連れになって、こちらへ忍びやかにお入りになる、と若公が仰いました。門を閉めないでお待ち下さい。」
と、忙しげに言い捨てて帰っていった。




 「言い捨ててぞ還りける。」という言い回しが、急に俗っぽくてちょっと面白い。
 監視の隙を見てパーティーを抜け出し、梅若公の大胆発言を伝えに来た桂寿くん。早く帰らねば、と返事も聞かないで行ってしまったのか、それとも、若公がこんなに気を揉んでいらっしゃるのに、またも意志弱く、あきらめて帰ろうとしとるのか、コイツはッ!とイラついているのか。いえ、後者はワタクシの気持ちですが…;

第九・第十