梅色夜話



*かなり長い上に、源内先生の社会風刺なんかも混じっていて、ちょっと読みにくいので、面白いところだけをかいつまんでお届けしたいと思います。


◎『根南志具佐』(一)

 宝暦13年、水無月のころ。荻野八重桐という女形が、隅田川で溺死した。人々は様々に噂したけれど、本当の事情を知っている者はいない。

 さてその由を尋ねると、この世でもない世界の、極楽と地獄の真ん中に、閻魔大王とおっしゃるやんごとなき御方がいらっしゃる。
 閻魔王宮は、昔はそれほど忙しくなかったが、近年(もちろん江戸時代)は人の心もねじれ、日増しに罪人の数は多くなって、少しの暇もないのだった。

 そんな中、また一人の罪人が、獄卒どもに引っ立てられてやって来た。閻魔大王が、はるかにご覧になると、年の頃は二十歳ばかりの僧であった。色白く痩せた体に、手かせ首かせをはめられて、腰のまわりには何であろうか、ふくさに包んだものをくくりつけている。

 「此の者の罪は」
 閻王がお尋ねになると、かたわらから、倶生神(ぐしょうじん:閻魔王庁の使臣)が罷り出て申し上げた。
 「この坊主は、南せん部州大日本国、江戸の学徒僧でございますが、江戸堺町の若女形、瀬川菊之丞いう色若衆の美しさに魅せられて、師の僧の身代(財産)をかすめとり、錦の戸帳(仏を安置した厨子にかけるとばり)を古道具屋に売り飛ばし、行基作の弥陀如来は質屋に入れ……、
 しかしついにはその悪事が露顕して、座敷牢に押し込まれたということです。
 そうなっては菊之丞に逢うことも叶わず、そのことを苦に病に陥り、むなしくあの世(現世のこと)を去ったのですが、断末魔の苦しみにも菊之丞の面影を忘れ得ず、此処までも肌身離さず腰に付けてきた"あれ"は、鳥居清信の描いた菊之丞の絵姿でございます。
 若気とは言いながら、師匠親の目をかすめた咎は、すべて鉄札に記しておきました。
 しかしながら、今時の坊主は、表向きは抹香くさい顔をしながら、遊女狂いに一生懸命になっております。それに比べれば、坊主の優童(やろう、と読む。即ち歌舞伎若衆)狂いは、軽い罪でございますから、剣の山へやる罪を一段軽くして、彼の好む、釜入りにいたしましょう」


 
 さあ、閻魔大王のお返事はいかに!?(つづく)
 
 このお話、所々に源内先生のお江戸ィアンジョークが散りばめられていて、けっこう理解が大変です; (オカマ好きだから釜入りの刑にする、てのは分かりやすいけど)。
 注を見ても、「未詳」「源内の創作か」なんて記述があちこちに。頑張ろう。

 八重桐(二代目)が亡くなったのは、1763年6月15日(旧暦)。没年38、だそうです。うむむ。いやいや、女形に年齢はありません。
 菊之丞(二代目)は、王子路考(おうじろこう:王子は江戸の地名です)と称され、美貌を謳われた若女形です。1741年生まれだから、このとき22,3才かな?
 
 ちなみに、源内先生(なぜか先生をつけてしまうッ!)自身も、日本史界で指折りの男色家だそうです(何かの漫画で、「源内の子孫」って設定をみたけど、ありえないですから!一生独身で、愛童までいたんだから)。
 国学・蘭学と、文理に秀で、絵も描いちゃうし、戯作家でもある。その上男色家だなんて、ある意味で、ワタクシの理想の男性だわ(ヲイ)。

其の二